里見忠義が来た倉吉の地のまわりの伯耆事情
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家康の天下支配は確立しました。西軍に味方した因伯の諸大名はすべて没落のうきめにあいました。
鹿野城主亀井茲矩は東軍だったので、高草郡2万4千石加増の4万3千石。
鳥取城は宮部元房(継潤の子)から池田備中守長吉6万石。若桜(鬼ガ城)は山崎家盛2万5千石。羽衣石城南条、吉川広家は没収。浦富垣屋恒総、若桜木下重賢は自害させられました。
米子城には、駿河から中村一忠18万石が着しました。八橋に伯父中村一栄、打吹城は、家臣の中村伊豆守預かり。
慶長14年(1609)米子城主なかむら一忠が死に、嫡子なくお家断絶となる。
慶長15年(1610)米子城は美濃から加藤貞泰6万石、八橋城は美濃より市橋長勝3万石、黒坂城は関一政。倉吉は直轄領となり代官山田五郎兵衛と決しました。
幕府は大名の離反を防ぐため大名の配置に意を用い、大名領と大名領の間に幕府の直轄地である天領が置かれ、郡代・代官を派遣して支配するとともに大名を監視させました。
慶長19年(1614)里見忠義3万石が倉吉の地へでやってまいります。
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